ほ〜む 
ひきこもり体験記。

四ヶ月、バイトを含めた仕事をしていないと(勿論、学生でもなくて)ひきこもり、と言われるのが世の中の定義なんだそうです(゚-゚;) タヌキに言わせると、遊びに出たり買い物に出たり出来るだけでも、まだ本格的なひきこもりじゃないんじゃないの?って感じなんですが。(それを言ったら、同棲で主婦業やってるあたしは見事なひきこもりになってしまう(^^; ちなみにタヌキは、今の自分の事を「プチひきこもり」だと思ってます。だって、出たい時に出られるも〜ん(゚-゚;))

上に書いた様な「プチひきこもり」じゃなくて、タヌキは19〜20歳の頃に本格的な(?)ひきこもりを徹底的にやった事があります。そういえば、この話をまとめてした事ってあんまりないから(特に最近は)ここにつらつらとまとめておきたいと思います。

どんな子供だったの?

京都のおっとりとした土地で生まれ四歳までは、子供らしい子供だった。ただし元々集団に適応しにくい性質はもっていた様に思う。幼稚園が嫌いで、幼稚園の送迎バスから直前逃亡かまして、当時住んでいた家の近くの神社の裏山に入って一日を過ごした事もしばしば。当然、幼稚園では一人で廊下に立たされるようなジャリガキだった。(ただし、その当時の担当していた幼稚園の保母さんも、あんまりいい人じゃなくて、どっちかというと子供が嫌いっぽいのに何故この職業を!?ってタイプの人だったけどね。) 四歳の時に、親の勝手で某県のド田舎へ。激過疎地、って訳でもないけれども、明らかに都会と比べれば十年は遅れている、こと精神医療面においては二十年は遅れている、そんな場所がタヌキの実家のある所。未だに手かざしが横行していてお金を落としていく観光客には甘い(学校でパンフが配られるぐらい(^^; )けれど、よそ者には好奇の目を向ける、そんな感じの所。引っ越し初日に「わたし」は死んでしまった(笑) 生き延びる為には、それ相応のノルマをこなす「義務」がある。そしてその「義務」は将来、敵を抹殺する「武器」になる、それだけを夢みるかなり嫌なタイプの子供だった。


いつ位から壊れはじめたの?

元々、鬱病&人に対して心を開かない(と、いうより根が頑固で、納得が行かない友情はタヌキには不必要なわけ。あの街には、タヌキが友達と思える人はいなかったの(^^; )性分だったのが一気に加速したのは中学一年の終わり。好きだった人が病気で三学期まるまる来れなかった事を気にやみすぎて成績が急降下したのを、頭ごなしに否定されて親に実質、はじめての反抗を起こしたのをきっかけに糸が切れた凧みたいになってしまった。神経症を起こしたのかなあ(゚-゚;) 今でも苦痛なんだけれど、ともかくペンを握って文字を書くのが辛い、そして教科書をはじめとする活字に対して徹底的に拒絶感をもち、それまで毎日狂った様にノートを埋めるのを日課にしていたのが嘘のように何も出来なくなった。何が好き?って言ったら、漫画を買って来て読むのと時々お菓子を作る位。まあ、自分でも危機感を抱いて色々、自分を騙すべく「今日はここのページまでやろう」とか、「どこまでやったらご褒美を」とか試行錯誤したけど、全て無駄!勿論、認める人なんて無し!(苦笑) 今から思えば、今以上にバリバリの鬱状態に入ってたんだけど(゚-゚;) 周囲の台詞はひたすら「もっともっと。」 「もっともっと。」と「今ここでやめるなんてもったいない。」でノーと言えないままに突き進んだ。中学三年の時には、スナック菓子の過食をやりながら半登校拒否児。たぶん、この頃の事は母親以外気付いていないと思うけどね(゚-゚;) 学校には行ってたけど、気持ち的には半壊だった。内申書の為に、ひたすら通った中学時代って感じ。一羽のアヒルがいなかったら死んでたかもしれない。(っていうか、自殺未遂した(^^; 家中の薬ひっかき集めて全部のんだもの。もの知らずで胃薬のまなかったから全部吐き戻しちゃったけど。あれぐらいじゃ自殺未遂って言わないんだろうけれど、気持ち的には死のうと思ったんだよなあ。)


高校時代の登校拒否

高校一年の時に通風をやって、今度は通風の恐怖に脅えて一気に過食から反転、拒食へ。二年の時が一番凄まじくて、その代わりその頃が一番女としてはキレイだった。(ただし、今の方が表情は生き生きとしてるらしい。皮肉だよね、こんな(約90キロ〜!)なっちゃったのに。) 鬱病は更に悪化。それまでは、昔とった杵柄(驚くなかれ、タヌキは中学二年以降はロクに勉強していないのだ。高校受験の為の受験勉強も、中学一年までの積み重ねオンリーでクリアしたの。ともかく、「あの日」以来、全く活字はダメ!)で乗り越えて来る事が出来たけれど、高校の勉強っていうのはそれまでの知識は殆ど役に立たない。(この頃から一気にガリ勉タイプが落ちていく所以だよね。要は、全ては好奇心が無ければ身につく筈もないのよ。そして私にはそんな好奇心なんて、もう一滴も残っていない!)高校二年の時の恋愛沙汰で、相手に自分を認証して欲しい欲求を押しつけすぎて、鬱病が更に更に悪化。(もう、ここからは泣けてくるばかり。) 心配して欲しい、という歪んだ欲求をきっかけに登校拒否がスタート。徐々に、重度の対人恐怖症へと変化。担任、クラスメートはおろか、家族まで全く信用出来る人は皆無の生活で学校に行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。一番通えなかったのが高校三年の一学期〜二学期にかけて。勿論、中間・期末テストは欠点(赤点)の連続。実はタヌキ、高校三年の時の記憶が殆どない(゚-゚;) 解離現象の自覚はない筈なんだけれども、特に二学期の後半から三学期にかけて、中間・期末テストをきちんと受けて欠点をどうしたか、って記憶が殆どない(^^; >欠点には間違いない。しかし、数学のレポート以外の記憶が殆どない。断片的に覚えてるのは、微積の教科担任が黒板をばしばし殴ってる事と、担任の嫌みぐらい。あと、マジでなんかあったっけ(^^; あ、でも卒業試験だけは、「これでもう終わりなんだ。」と思ったら結構いけた記憶が(゚-゚;) ちなみに、一番辛かったのは、微積のテストと化学の有機のテスト。化学の有機のテストに至っては、文字は書けたのか、って位にひどかった。


高校をなんとか、卒業して

一応、それでもギリギリの所で藁にもすがるかの様に、親が希望する医学部を受験はした。けれども、やっぱり鉛筆を握る事すら苦痛なタヌキにテストなんて苦痛もいいところ(^^; 当然の様に浪人して、一某県の駿大に入る。(解ってると思うけど、予備校ね(゚-゚;)) 環境を変えて心機一転したい所だったのだけれど、親の意向で知り合いの経営している薬局の上の階に居候させた事が引き金になって、結局更に鬱病が進む。この頃、高校二年の時から好きだった男の子に徹底的に手紙を送り付けて嫌がられた。(今でいうストーカー行為よね。今はもう、こんな事絶対にしないし、この事は人生最大の汚点にして屈辱。) 最初の間は、予備校の近くの図書館で時間を潰したり、駅前の地下街をうろついたりしていたのだけれど(二回程、補導されて困った(^^; ) 徐々に外に出るのも恐ろしくなっていく。夜になれば薬局の人が帰ると思いきや、午前二時・三時になっても人が居る様な気がしてならず完全に昼夜が逆転し、しまいに実家に帰ってしまった。ここから超本格的な引きこもり状態に陥る。居候させて貰っていた家の片づけがロクに出来なくて、その後どうなったのか全く知らない。(勿論、それが出来たならひきこもっていないだろう、という話も。)


どんな引きこもりだったのか

引きこもりをしている事は、ともかく秘密。帰って来ているのも勿論秘密。一歩外に出れば街の人が皆、家の灯をチェックしているからと言われて昼夜問わず、電気は出来るだけつけずに昼間は特に息を殺し、水も食事も最低限に人がいない時にしか出られない。トイレも勿論、昼間は極力行かない。もっともタヌキを認証して来なかった父親に会わない様にするのに尽力して、行動している時間は深夜が中心になる。が、電気をつければ居るのがバレるから、暗闇の中を手探りに階段を降り、皆が寝静まったのを確認して早朝五時頃までひたすらスーパーファミコンをやる。カセットは、弟が情けで手に入れてきてくれたものばかり。RPGをクリアした本数は30本近くに及ぶ。子供の頃、ファミコンを父親に焼却炉で焼き捨てられた経験があった為、父親にだけはバレてはならないと一層神経過敏になる。(でも、実は知っていたらしく、後に諦めた模様。)同じ様な引きこもりを体験した、している人でも自由に買い物に出たりはしている様だけれど、タヌキはパソコン通信をはじめるまでの約一年間、殆ど外に出なかった。犬の散歩に三回程つきあったのがせいいっぱい。その時見た夕焼けが恐ろしく泣けるものだったのを今でも覚えている。一面の田んぼの向こうに見える大きな夕焼けは、とてもキレイで次にいつ見る事が出来るか解らないもので、そして外に自分が居るという事が、誰に見られているか解らないという事がとても恐怖だった。高校一年の頃か患っていた腸性過敏症候群(自律神経失調症の一種)に苦しんで、心配してくれるのは犬一匹、という環境の中、どういう訳だか生きていた。この頃の母親の台詞は、「死ぬなら外で死んでくれ。」「ともかく、お金はやるからどこかへ行ってくれ。」 味方なんてどこにもいなかった。ただ、本当になんとなく生きていた。C1000タケダを段ボールごと自室のロフトにひっぱりあげて、埃だらけの寝床まわりでショウジョウバエを二・三匹飼いながら、どういう訳だか生きていた。真上を見ると柱に木目が見え、木目を数えながら、もしも万に一つの可能性でいつか私が外に出る事が出来たなら、私のような人間でも生きていてもいいんだと叫べるような、言いたい事を言えるような場所が創りたいと人知れず思った。死にたかったけれど、勇気がなくて死ねなかった。死ぬことも出来ないし、生きる事も出来ない。調子のいい日は午前中、少しだけ母親のくだらない話につきあう。この頃、クリントン大統領が自分もACである(あった)事を表明し、その話を母親がしていた様な気がする。もしかして、明日香もそうなのではなかろうか、と。ただ、その時のタヌキには何かを考える余裕なんて、これっぽっちも無かった。


以下、元気があったら続行〜♪



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